知っていて損にならない話 ・・・ 沖縄のちゃんぷる知識


沖縄の芸能






 沖縄の伝統芸能

沖縄は芸能の宝庫である。 琉球古典音楽と沖縄民謡の唄と踊りに彩りを添える のは弦楽器の三絃(さんしん)である。 三絃は六百十年程前に中国の明から伝来したという。  それはともかく、琉球芸能は、冊封制度により発達したといわれる。 冊封使を接待するため、 王府ほ芸能の振興に力を注ぎ、踊りに関する行事の指揮、監督、指導する踊奉行をおいた。  初代踊奉行に任命された玉城朝薫が創作した組踊がその後の沖縄の芸能に影響を与えたといわ れる。  組踊は、中国の冊封使を歓待のための余興として創られた歌舞劇で、玉城朝薫が、1719年に 重陽の宴と執心鐘入を初演したのが始まり。 組踊は、中国の京劇、大和の能、浄瑠璃、歌舞伎 の影響を受けているが、独特の台詞回しや三絃で奏でる古典音楽、そして、琉球舞踊で構成されて いて、シンプルながら格調高い芸能に仕上がっている。 現在残っている演目は五十種余りの ようで、勧善懲悪をテーマとした儒教的ものが多いようである。 本土復帰した時、国内の 歌舞伎や文楽に続き、国の重要無形文化財に指定されたが、演じられる人が少なくなって、 観客も激減していたという。 現在、県がその保存に力を入れているという状態である。 
それに対して、隆盛なのは、琉球舞踊である。 国内のみならず、海外にも出かけて、しばしば 公演が行われている。 また、沖縄県人会のあるところは、必ず琉球舞踊の教室があるといわれる。 琉球舞踊の起源は宮廷舞踊として舞われていた女踊りと二才踊り(男踊り)などの古典舞踊である。   琉球王朝が崩壊した明治以降に庶民の暮らしを題材にした雑踊りが加わり、 第二次大戦後、琉球舞踊の先生が増え、彼らによって作られた創作舞踊が新たに加わった三絃。   古典舞踊は冊封使歓待や薩摩や江戸へ向かった時に踊ったもの で、宮廷音楽とともに発展したものである。 琉球王朝時代 には、新国王の冊封使による認証式が行われたが、その際踊られたのが、御冠船踊(うかんしん うどぅい)である。 その他、長寿と子孫繁栄を願う老人踊、緋色や紅型の振袖で少年たちが 凛々しく踊る若衆踊、あでやかな紅型をまとい、瞑想的時空に誘う女踊、空手の型をとり入れ キビキビ踊る二才踊があった。 なお、琉球王朝にとって、薩摩や江戸へ出向くことは 屈辱のなにものでもなかったと思われる。 訪れた料亭で何回が踊りを拝見したが、極めてシンプルで 静かな動きの中に、寂しさや無念といった感情を秘めて、無表情に踊られていたのが印象的だった。  琉球王朝が滅亡した後、明治十五年頃登場したのが雑踊り(ぞうおどり)である。 雑踊りは、 農村や漁村などの庶民の生活をテーマにした風俗踊りで、代表的なのは、ゆったりとした踊りの花風 (はなふう)やアップテンポで躍動的な谷茶前や加奈よーなどである。 雑踊の衣装は、庶民 の日常着で絣や芭蕉布などである。 沖縄観光で訪問されるホテルで琉球舞踊が上演されるが、 雑踊りが主体に、一部古典舞踊という構成である。 
琉球芸能には、その他に、三線を中心に、箏曲、胡弓、笛、太鼓で演奏する琉球古典音楽(宮廷音楽) がある。 かぎやで風が有名で、結婚披露宴や生年祝いのオープニングに演奏されるものである。  よそ者の小生には これ以上のことは分からないが、これから八八八六音形の琉歌が誕生したといわれ、今日の沖縄文化を 象徴している。 


 泡盛を飲みながら聞く音楽

本土復帰の仕事で沖縄に出向いた小生はジャズと琉球民謡に迎えられたといってよかろう。 当時の 沖縄は駐留米軍が巷にあふれ、コザ(現在の沖縄市)では、商店街は横文字が大きく、日本語はその 脇に括弧付きで小さく書かれていた。 クラブやバーに入ると、ジャズと米兵の煙草でむせかえっていた。  一方の南部に行くと、収穫期のサトウキビ畑では刈り取り農夫が持参したラジオから民謡が鳴りひびいて いた。 沖縄の夜は国内と違い、12時を過ぎると元気になる感じがした。 当時、地元の人達に連れて いかれていたのが、民謡酒場だった。 当時は沖縄に数百の店があったといわれる。 連れていかれても 言葉が分からない小生は黙ってひたすら泡盛を飲んでいただけだったが・・・
そういた民謡酒場には八重山民謡だけの店もあり、沖縄本島の人達には八重山の言葉は分からないものだった ようで、案内していただいた社長は足繁く通うのには驚いた。 
そうした民謡酒場を舞台に登場した歌手や駐留米軍撤収後の店で、アマチャーバンドが生バンドを演奏し、 そこからも歌手やグループが誕生した。 沖縄出身で、世界的に有名な安室奈美恵はその末裔といえる。  沖縄の音楽を全国的にしたのは、喜納昌吉、Kiroro、りんけんバント、ネーネーズ、などである。  喜納昌吉は、沖縄海洋博の後、チャンプルーズというグループを結成し、ハイサイおじさんや花で大ヒット を飛ばした。 りんけんバントは照屋林賢。 また、沖縄歌謡界をリードしたのは、芭蕉布やゆうなの花 を作曲した、作曲家の普久原恒勇である。 西洋音楽に沖縄楽譜の工工四(クンクンシー)ととりいれた 曲を作っている。 
訪れることで知った沖縄舞踊や音楽、そして、最近次から次へと登場する歌手たタレント達には、これからも 大きく羽ばたくように祈っている。 



沖縄のちゃんぷる知識                                      続 く (沖縄人-うちなんちゅう)




貴方は30万+かうんたぁ。目のゲストです!!