知っていて損にならない話 ・・・ 沖縄のちゃんぷる知識

( 頻繁に訪れた沖縄で、聞いたり !!  感じたこと !! )






 沖縄人(うちなーんちゅ)

本土の人を大和人(やまとんちゅ)という。
沖縄人が、人類学的にみて日本人の1分枝であり、その言葉が日本語の1方言であることには、内外の研究者のあいだに異論はないようだ。
本土復帰から関係した筆者から見ると、沖縄での生活環境は大きく変わったような気がするが、沖縄県が実施した調査では、「自分が沖縄人であると思うか」の問いに対し、yesと答えた人が86%だったという。 また、「本土と民族文化が違うか」に対して、yesが5割、ややそう思うを含めると8割に上ったという。この数字をみるかぎり、沖縄人の郷土愛は大変強いといえる。
沖縄人(うちなーんちゅ)は、戦前はハワイや米国や中南米などに、移民し、ハワイの日系新聞の死亡者広告などには沖縄出身地名を多く見られる。 大阪でも、大正区には沖縄人が多数占める地区もあり、しっかり根を下ろしている。 本土復帰以降、更に本土への人口流出が続いている。 しかしながら、沖縄に対する郷土意識は強く、固有の文化や生活様式に誇りを持ち続けているという訳だ。
ある本に、「日なたに立たないうちなーんちゅ」 とあった。 それに関連して、体験したことを紹介したい。
沖縄にはビーチが多いので、誰でもが泳ぐだろう!と思っていた。
泳ぎに誘ったら、「紫外線がきついので、海にはいかない」と断られた。 また、「本土のひとはわざわざ色を黒く焼きに行くがなぜなの?」とも、いわれた。
本土復帰した当時、沖縄の人は肌が浅黒かった。 若い女性も例外ではなかった。 沖縄は紫外線が強いので、どうしても日焼けするのだ。 今思うと、彼女等は、毛深いことと、色が黒いことに、劣等感を持っていたような気がする。
ところが、最近、那覇を歩いていても、色の黒い娘に出逢うことがなくなった。 化粧がうまくなったのか、日に当たらないですむことができているのか? ・・・・ 色が白くなった理由がわからない。
一方では、海水浴に行く若い沖縄のカップルが増えている。 週末には、恩納村など北へ向かう車が延々と続く。
ある本では、「沖縄の女性は厚化粧をして、日射から守っているのだ」と書いてあり、「日なたに立たないうちなーんちゅ」といっているが、真相はどうなのだろうか。

   

 沖縄語(うちなーぐち)

沖縄語即ち琉球方言だが、沖縄本島と宮古、そして八重山ではかなりの違いがある。
那覇人でも、八重山の言葉は分からないし、話せないという。
一方、本土復帰を境に、沖縄の標準語化が急速に進んで、若い人は、沖縄語を話せなくなってきている。このままでは沖縄語(沖縄本島の方言)がなくなると危惧する人達がいて、それを残そうと研究会が設置され、活動が進められている。

沖縄語の特色は、いろいろあるのだが、沖縄の人から説明を受けたことがないのも不思議だ。
だれにでも分かるのは、母音の変化である。
「え(e)行」が「い(i)行」へ、「お(o)行」が「う(u)行」へ、「う(u)行」が「い(i)行」へと、母音が変化していく。
例、  沖縄    おきなわ → うちなわ
    嫁     よめ   → ゆみ
    水     みず   → みじ
    心     こころ  → くくる

昨今、沖縄の歌がブームになっているが、涙(なだ)そうそうなど、聞いていても分からないことばが多い。しかし、歌詞の持つ意味は情感の溢れ、沖縄人の美意識の強さを感じることができるような気がする。
その他、声紋破裂音や、さとうきびというウージという発音(両唇半母音のW)など、やまとぐち(標準語)では使われない発音が多いので、ないちゃー嫁(内地から嫁にきた人)が話すことは大変むずかしいという。  また、沖縄の若い人が話せなくなったのもわかるような気がした。 

司馬遼太郎は、昭和四十九年四月に沖縄に旅した時のことを 「 街道をゆく 六 沖縄・先島への道 」 の中で書かれている。 
沖縄言葉については、石垣島の章で、地元のタクシードライバーとの対話を通じて語っておられる。  「 言語学のほうでは、沖縄言葉は日本祖語から六世紀ごろにわかれた、といわれるが、沖縄での基本的な単語で、 日本語ではすでに古語になっているのが多い。  外間守彦氏の沖縄の言語史に出ている例を借りると、垢、石、肩、木、血、草などは同じで、ほかに、 星をフシ、腰をクシ、馬をンマ、夏をナチ、月をチチといったりする。  本土の古語をひろうと、肉をシシ、種をサニ(さね)、魚をイユなどという。  もっともイユは島原あたりでも魚はイオで、沖縄と共通している。  手はティ、雨はアミ、ココロはククルである。 
沖縄言葉がわかりにくいのは、母音が二個欠けているためだろう。  本土言葉の母音がアイウエオの五個であるのに対し、沖縄ではいつのほどか、エとオが欠けてしまっている。  このため、雨がアミになり、米がクミになり、心がククルになってしまう。  夜は、Oがないためにヨルとは言えずどうしてもユルになってしまうのである。  母音三個ですべて用を足しているなど軽業のような感じがするが、 しかし鹿児島弁の武家言葉でないほうの地下言葉のなかには多少この母音の節約という傾向があるのではないか。 」 
と述べている。 タクシーの運転手が、 「 関西弁と沖縄言葉、八重山言葉は感じが似ています。 」 と答えたことについて、 遼太郎は、 「 上方ー近畿地方と四国をふくめてーの言葉における抑揚、アクセントといった音としての調子は、 中国地方や北九州ともひどく異っていて、いわば日本の方言語のなかでは孤立しているにちかい。  音の調子が似ているといえばかろうじて鹿児島弁が仲間といっていい。  これはどいうわけだか、よくわからない。 
わずかに分類めかしく話を持ってゆくとすれば、奈良朝以前から、全国を七つの地方にわける区分法があった。  東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七地方だが、 このうち南海道の言葉が、ほぼ似た音の調子のように思える。  南海道とは、紀伊、淡路、阿波、伊予、讃岐、土佐の六カ国で、上方方言はこの南海道の範囲に入るらしく、 これに西海道(九州)のうちの薩摩を入れれば、ほぼ類似音の世界ができあがる。  奄美諸島も、琉球諸島も、私が耳でその方言をきいているかぎり、音の調子としては仲間であるといっていい。 」 
と書いておられるが、これらは小生の説明を裏付けるものだろう。 
遼太郎は、この章に沖縄で戦前から行われた共通語(標準語)教育のことに触れられている。  小生が沖縄へ仕事で訪れたのも遼太郎の旅行と同時期であったが、 那覇では首里を中心とした那覇の言葉を残そうという動きが出ていた。  その運動はその後どうなったか、確認できていないが、それから三十年程経った今日、沖縄の本土化は確実に進んでいる。  本土で生活する際に共通語が話せるとよいのは当然であるが、 沖縄や八重山に沖縄語が残ることは沖縄文化として欠かせないものと思うので、ぜひ後世に残して欲しいと思っている。 



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