民 芸 品
焼き物のことを沖縄ではやむちんという。 沖縄に始めて訪れたころは、壺屋焼しかないと思っていた。
その後、度々訪れ、薩摩焼に似た焼物
もあることに気付いた (右写真ー壺屋焼)
十七世紀頃、琉球王朝が知花窯、首里の宝口窯、那覇の湧田窯などに分散
していた壺窯を現在の那覇市壺屋に統合したのが、沖縄を代表する壺屋焼の始まりである。 琉球王朝
時代から中国、シャム(タイ)、朝鮮半島との交易の影響を受け、絵柄に南国の動植物を大胆に取り入れる
原始的、土着的だが、気品のある焼き物を生み出してきた。 壺屋焼には、釉薬をかける上焼(じょうやち)と、
かけない 荒焼(あらやち)がある。 上焼は絵付けのことで、島内でとれるサトウキビ灰やマンガン等
と壺屋独自の釉薬で
化粧して約千二百度で焼かれ、碗、皿、鉢、
壺などの器が主である。
荒焼は南方から伝来した南蛮酒を貯蔵する南蛮甕を焼いた南蛮焼き工法
がルーツで、無釉焼締め製法
で千度前後で焼けれて、酒甕などの大型容器が主である。 敗戦後、壺屋焼は復活したが、人間国宝
になった金城次郎氏がその代表である (右写真ー釉薬をかけた上焼のシーサー)
壺屋焼の作家ものは那覇市壺屋のやちむん通りをはじめ、読谷村の工房などで買うことができる。
琉球焼は、十七世紀初頭に薩摩から朝鮮人陶工が招かれ、製陶技術を学んだというだが、現在の焼き物に
なったのは三十年前と壺屋焼側は主張し、琉球焼側と大論争になっていると、琉球新報が伝えている。
これが事実だとすれば、小生が沖縄に始めて行った時、知らなかったのは当然である。 その論争は
脇に置くと、琉球焼は、尚王朝時代の六古窯の流れを組み、壺屋焼きの影響を受けながら、沖縄独特の
緑、青、紫、紅色など色彩豊かで見た目にも明るい絵柄である (右写真)
皿、茶わん、花瓶、湯のみ、酒器など
、主に観光客の土産用に生産されている。
泡盛の酒器といえば、カラカラである。 本土の急須に似ていて、泡盛が一合から三合が入る。
ちょこが
セットのものが普通のようだが、小生が手にいれたのはからからだけだった (右写真)
南蛮甕は、居酒屋に置かれて、注文すると古酒が入っている一斗甕あるいは三斗甕の南蛮甕
からカラカラへ注いて出してくれる。 遠い昔、シャムからこげ茶色や赤土色の南蛮甕に入れられて伝来
した南蛮酒が泡盛のルーツであるが、以来、沖縄の人々は南蛮酒が入った荒焼きの甕を南蛮甕と
呼ぶように
なった。 現存する南蛮甕は少ないが、昔の南蛮甕を参考に無釉で焼きしめた甕を琉球
南蛮荒焼き
と称している。
また、抱瓶(だちびん)というのもある。 半円形に湾曲している器に棕櫚縄が付いていて、昔、
農夫がサトウキビ刈りなどに腰につけていき、休憩時にちびりちびりと飲んだといわれる (右写真)
その他に角瓶。 その名の通り、全体が角張り、カラカラ同様に酒席の容器として利用される。 泡盛が
五合ほど入るので、宴会向きである。
鬼腕(ウニヌティー)という土瓶みたいな酒器は、昔に泡盛を量り売りをしていた時代に買い物用に
持参した瓶だが、最近ではお店の飾りとして使われたり、キープボトる代わりに使われていることが多い
ようである。 その昔、漁師が漁業の途中で倭寇などに襲われ
た時、投げつける武器として使われたという説もあるようである。
沖縄でガラス工芸が始まったのは、戦前の大正時代からというが、盛んになったのは米軍が沖縄を占領して
からである。 沖縄のガラス製品は色がついたカラフルなものが多いが、これらは清涼飲料水、ビールや一升
瓶を溶かした再生ガラスなのである。 アメリカ兵が飲んだコカコーラやペプシコーラやバアートワイザ
ーなどのコーラやビール、ウイスキーの瓶の色の色彩を生かして、花瓶やコップなどを作っていた。 最近
では、いろいろなデザインのものが豊富となり、土産ものの範疇から工芸のレベルに成長していたのには
驚いた。
琉球の漆器は、海外交易の盛んな十四世紀〜十五世紀のころからり、十七世紀には琉球王府に貝摺
(かいずり)奉行所という漆器の製作所が設置され、技術的にも芸術的にも
水準の高い工芸品を作るようになったといわれる。 当初は、交易の相手であった中国よりの漆器技法
・堆錦、沈金などの吸収であったが、次第に沖縄独特の技術や構図を生み出していった。 慶長十四年
の薩摩藩による琉球支配以降は、中国風のデザインの製品を主とし、将軍家への
献上品や諸大名への贈答品、あるいは民間交易品として珍重されるようになった。 琉球王朝崩壊後は
官業から民業に移り、美術工芸的なものから丈夫で安く、朱塗りの美しい漆を生み出して、全国的に
知られるようになった。 しかし、第二次大戦の空襲と米軍による占拠により、国内向けの生産は出来なく
なり、米国駐留軍向け土産ものとして、なんとか生産を続けてきた。 復帰を境に県内ではにわかに
地場産業育成の機運がおこり、また、全国的にも民芸品の人気が出てきて、沖縄漆器も注目されるように
なった。
沖縄の年間平均気温は約二十二度、湿度は八十パーセント近いので、漆器の生産には大変恵まれた環境下
にあり、また、漆器の木地としては、狂いや亀裂が生じないデイゴやシタマキ(エゴノキ)、木目仕上げに
美しいセンダンやガジュマル等の木が手に入る。 沖縄の堆錦は、中国が素朴な加飾法なのに対し、
立体的な浮彫表現の高肉の華麗な加飾法を編み出し、それが特色の一つである。 なお、琉球漆器の生産
は、塗師達が住みついた若狭村(那覇市若狭)を中心に行われているようである。
紅型は沖縄独特の染め物である。 その起源は十三世紀頃と推定されるが、琉球王朝時代からあった染物
の技法に、紅型という名が付いたのは、明治以降のことらしい (右写真-型染め)
琉球王朝では王族と士族、そして、大きな手柄を立てた人や踊り用にだけ、両面染めの紅型の衣装の着用
が許されたとあり、一般大衆が着ることはなかったようである。 琉球王朝はアジア諸外国との貿易が盛
んだったこともあり、紅型にはインドやインドネシアの更紗、中国の印花布の技法や模様が色濃く表れて
いる。
紅型の技法には、型染め、筒描き、藍染め(漬染め)がある。 型染めは、型の上から色を挿す
のではなく、糊を置くこと。 特に両面染めの型置きは高度な技が必要である。 後に京都の友禅の技法
や模様もとり入れらる。 天然染料のフクギは染めると黄色となるのだが、昔から黄色は高貴な色と
いわれ、着用出来るのは王族のみと決まっていたという。 地の色としては、黄色や赤や白が用いられる。
柄色には顔料を使用され、赤はコチニールから取るほか、緑などは顔料化した藍などの混色で作られる。
第二次世界大戦の沖縄決戦で、那覇を中心に焦土化したため、紅型で一番大事な型紙が焼けてしまったが、
紅型職人の手で再興され、今日まで続いており、伝統工芸の祭典である全国工芸展などで、紅型の着物
を見ることもしばしばある。 といっても、着物の需要の激減で紅型の着物は沖縄の料亭などで行われる
琉球舞踊でしか見られないような気がする。 観光用には、テーブルクロス、壁掛けやコースターなどに
作られている。
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