庚 申 塔 ・ 庚 申 塚 


photographs by Max(Masayoshi) Tanuma


かうんたぁ。



庚申塔は、庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことで、塚の上に石塔を建てることから庚申塚、 塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。 
庚申とは、干支の庚(かのえ)(さる)の日を意味するが、 「 庚申の夜、 寝ていると、人間の体の中にいる三尺の虫が身体から脱け出し、天帝にその人の行った悪行を告げ口に行く。  天帝は寿命を司る神であるから、悪いことをした人に罰として寿命を縮める。 」 という言い伝えが道教と共に 中国から伝わった。 そのため、「 三尺の虫は起きていれば、身体から脱け出ることができないので、庚申日は 徹夜をする 」 という風習ができ、仲間を集めて行われた。 これが庚申講であり、庚申待、宵庚申とも呼ばれたが 、 庚申講を三年十八回続けた記念に、庚申塔が建立されることが多かった。 また、青面金剛は、三尺の虫を喰って しまうといわれ、いつの頃からか、庚申待ちには、青面金剛を本尊として拝むようになった。 庚申塔と 刻まれているものが多いが、青面金剛を刻んだものには、神の使いとされる三猿も一緒に祀られている。 




□ 岐 阜 県


中山道の美濃路を歩く


旧細久手宿 旧大井宿(恵那市)上宿

細久手宿に入った小高いところに庚申堂がある。 
旧大井宿の入口にあたる上宿には、石仏群があるが、その中に庚申塔があった。 







□ 愛 知 県



春日井市将軍地蔵堂境内

下街道を歩いていて、春日井市明知町の将軍地蔵堂を訪れた時、 境内の右側に石仏群があったが、その中に庚申と書かれた石碑が二柱あった。 







□ 長 野 県


中山道の木曾路と信濃路を歩く


南木曽町大妻籠 塩尻市日出塩長泉院 塩尻市洗馬
塩尻市平出 長和町下和田 旧望月宿城光院

馬篭宿と妻籠宿の間にある大妻籠には、道標を兼ねた庚申塚があった。 
洗馬宿の善光寺道との追分に、沢山の石碑の中に庚申碑があった。 
そこを過ぎ、中山道より右側に平行した道を行くと、平出遺跡であるが、 それより手前に庚申塔が林立していた。 
望月宿城光院で、背丈ほどある青面金剛像が建っていた。 








□ 群 馬 県


中山道の上州路を歩く


安中市松井田町横川 矢野沢橋脇 安中市松井田町五料 碓井神社 同 左  丸山坂の下
安中市郷原 自性寺 安中市原市  安中市松井田町
安中市中宿 蓮華寺付近 旧板鼻宿の江戸側入口付近 同左南窓寺付近
高崎市下横町 興禅寺付近 高崎市新後閑町 荘巌寺前 旧板鼻宿の中央付近
旧新町宿 弁天社境内 旧新町宿 神流川畔 安中市松井田町新堀
旧新町宿 専福寺付近 旧倉賀野宿 倉賀野神社 旧倉賀野宿 安楽寺

五料の夜泣き地蔵がある丸山坂の下の青面金剛塔には、元文五年と刻まれていた。 
自性寺の境内には、大きな庚申供養塔の右側に青面金剛塔、左側に小さな庚申塔があった。 
原市の庚申石祠は、寛永二年(1625)の建立であるが、案内には、安中最古とあった。 
安中の蓮華寺近くにあった庚申塔の隣には御嶽山座主大権現の石碑があった。  
街道から南窓寺に向かう途中に、猿を描いた大きな庚申塔があった。 
荘巌寺の庚申塔には、寛政八・・・と刻まれていた。 
倉賀野宿の入口にある安楽寺の本堂前に、安永四年(1775)の庚申塔があった。 







□ 埼 玉 県


中山道の武州路を歩く


上里町金久保 陽雲寺 上里町金久保 金下公会堂の南 旧深谷宿京側入口付近
深谷市普済寺 普済寺入口 深谷市岡部 清心寺の近く 熊谷市新堀 玉井団地

陽雲寺は、新田義貞の臣である畑時能の墓所がある寺である。 
金下公会堂の先数百メートルの空き地に小さな社があり、両脇に庚申塔、薬師像、二世安楽塔、、二十二夜塔など の石碑がある。 
清心寺の近くには、岡部六弥太旧跡の石柱が建ち、その先に庚申塔などの石碑が並んでいる。 
篭原駅の先の左側は玉井団地で、新しい家並が続くが、道の左側に、庚申塔が残っていた。 これだけ、周りが変貌 すると、庚申塔や石仏が残るのは奇跡に思えてしまう。 庚申碑の下部には、玉井邑(たまいむら)の文字が見えた。  

熊谷市久下熊久 東竹禅院 北本市東間一丁目 東間浅間神社境内 同 左 
上尾市大字上 町谷境交差点の南 上尾市上町 上尾市愛宕 愛宕神社境内

東竹禅院には、観世音像に混じって、寛政五年の庚申塔が建っていた。 
東間浅間神社の入口に、庚申様と書かれた小さな社があり、本尊は猿田彦尊とあり、天孫降臨の際、道案内をした 神で、旅の安全と悪霊厄除けの神と紹介されていた。 
町谷境交差点の南のは、明和六年に建立したもの。 
図書館西交叉点を越えた左側の歩道に、道路に向いて大きな庚申塔がある。 上町庚申塔と呼ばれるもので、青面 金剛像と三猿が彫られている。 延享二 ...と書かれていて、上尾上町講中が建てたもの。 その先の愛宕神社境内 には、社を設けた中にあった。 

さいたま市東区東大成二丁目  さいたま市浦和区針ヶ谷 大原陸橋東交差点付近 上尾市栄町 
馬喰新田交差点付近
さいたま市大宮区浅間町二丁目  同 左 (庚申神社はおおみや市民会館の東手) 戸田市下戸田二丁目
さいたま市南区根岸四丁目 薬師堂境内 戸田市川岸一丁目 戸田薬師堂入口 同 左

宮原一丁目バス停から50mほどのところに赤い鳥居と猿田彦大神と表示されたお堂があった。 その中に、 青面金剛像と二鶏、三猿が陽刻された庚申塔があった。 教育委員会の案内によると、  「 東大成の庚申塔といわれるもので、高さが142cm、幅が45cm の大きさ。 元禄十年(1697)、井上、清水、黒須、吉田、小川などの十四名とおまつ、 お加めなど、二十二名の女性の名が刻まれ、平方村(上尾市)の石屋、治兵衛に注文 され製作された。 」 とあった。 
大原陸橋東交差点付近にある庚申塔は、正徳四年に建立したもので、猿田彦大神が祀られる、とある。 
氷川神社参道から東に入った庚申神社は、宝暦十年(1760)正月、大宮下町講中によって、建立された庚申塔が祀られていて、 石碑の正面に青面金剛像、そして、日月、二鶏、天邪鬼と三猿が、陽刻され、側面には、 「 南方北袋道、西方大宮宿、東方天沼道、北方社中道 」 と、記され、道標にもなっている。 
蕨警察入口交差点を過ぎた左側、下戸田二丁目のマンションの駐車場の一角に庚申塔が祀られている。 
戸田地蔵堂の入口に、享保十六年(1731)の庚申塔がある。 








□ 東 京 都


板橋区仲宿 遍照寺境内 板橋区志村二丁目 清水坂上 板橋区板橋三丁目 
観明寺
文京区向ヶ丘1−11−3 大円寺 板橋区蓮沼町 南蔵院 豊島区西巣鴨3丁目 
巣鴨庚申塚

遍照寺の境内は、江戸時代、幕府の伝馬や公文書伝達用の立馬などのつなぎ場だったところ。 寛政十年(1798)の 馬頭観音などの馬頭観音像に混じり、庚申塔も幾つかあったが、長い間放置されたままになって いたせいか、かなり傷んでいた。 
清水坂には中山道が通り、頂上付近に、万延元年(1860)の庚申塔と寛政四年(1792)の道標が残っている。  庚申塔は、道標を兼ねたもので、左側面に、「 是ヨリ富士山 大山道 」、下側に、 「 練馬江一里、柳沢江四里、 府中江七里 」 と、ある。 
観明寺の参道入口にある庚申塔は、寛文元年(1661)の造立で、青面金剛像が刻まれたものでは、都内最古である。 
西巣鴨3丁目にある巣鴨庚申塚の庚申塔は、文亀二年(1502)に建立した当時は、八尺の高さがあったが、明暦三年に 再興した時、丈を縮め、壊れた部分はその下に埋めた、とある。   




大田区南馬込五丁目 長遠寺 江東区清澄三丁目 清澄庭園内
庚申塔は寺の前にあるが、長遠寺は天仁元年(1108)草創の古刹で、はじめは馬込村字堂寺にあったが、文亀二年(1502) に現在地に移ったとされ、 三代将軍家光が崇敬したといわれる十一面観世音立像を安置 している。 清澄庭園の目立たないところにある。 右側の庚申塔は高さ89.5cm、寛文十年(1670)の在銘。 中央は法印慶光 供養塔(阿弥陀仏)で、高さ141cm、延宝七年(1679)の在銘。 左側の手前は馬頭観音供養塔で高さ44cm、安永 三年(1774)の在銘。 奥の庚申塔は高さ67.5cm、文化十二年(1815)の在銘がある。 これらは江東区の指定文化 財である。


渋谷区幡ヶ谷2丁目36番 清岸寺境内  杉並区永福1-6-15 天長山永昌寺の門前 
墓地入口右手の六地蔵尊の背後の舟形光背地蔵尊(念仏供養塔)のとなり、 浮彫りの片膝をたてた猿型半跏像の庚申塔があるが、このような形態をした庚申塔はめずらしい。 二体の地蔵像の隣に、三体の庚申塔が祀られていた。 
案内板には四体とあったが、もう一体はどこにあるのかなあ?


杉並区下高井戸四丁目 庚申堂 同左内にある庚申塔 
世田谷区南烏山四丁目 
甲州街道の鎌倉街道入口交差点を右折し、旧鎌倉街道を浜田山方向へ向かうと三叉路があり、そこの庚申堂が祀られている。  左側の庚申塔は、元禄十一年十一月吉日鈴木七兵衛ら十一名が建立したもので、青面金剛と日月、三猿を刻んだもの。  右側の庚申塔は、元禄九年十一月吉日吉田佐市郎ほか十四名の建立で、奉庚申信仰敬白・・などの文字のみの簡素なもの。 甲州街道の旧烏山村中宿の烏山川に架かっていた大橋の跡地に安置されているもので、武州烏山宿大橋場跡の記念碑の隣に、 下山地蔵を中心として、三基の庚申塔が祀られている。 右側の笠付の庚申塔は、元禄十三年(1701)の建立で、 右側の庚申塔は、三猿の部分から下が欠けてなかった。 その隣のものは、全体的に摩耗していた。 


調布市国領町一丁目 庚申堂 府中市白糸台一丁目 
同 左  国立市谷保6218 南養寺境内
どういういわれのものか、わからなかったが、小さなお堂に祀られていた。  府中の国府から東海道へ出るための古道の品川道に建っていたもの。 庚申塔の文字があり、庚申塔だが、その側面には、東品川 西府中 道 上車返村 とあって、 道標を兼ねていたことが分かる。  旧上谷保村は甲州街道に面していたが、南養寺の境内にある二基の庚申塔はどこにあったものだろうか?



永福稲荷神社 梵字庚申塔 同 青面金剛塔

八王子市新町の永福稲荷神社の境内には高さは同じ位二基の庚申塔があった。 
左側のは享保八年(1723)の建立で、表に青面金剛心呪という文字が梵字で刻まれている。  これは梵字真言庚申塔と呼ばれる珍しいものである。 
右側の庚申塔は 青面金剛とその下に三猿が刻まれたものだった。 




□ 兵 庫 県


西国街道を歩いて見付けた


旧武庫村 旧昆陽宿

現在の尼崎市西昆陽2丁目にあったが、庚申塔といわず、青面金剛と呼んでいた。 
旧昆陽宿にはこれを含め3つの庚申があり、これは西の庚申。 これらは何故か布に覆われていた。  また、地蔵仏とされる石仏と一緒に祀られているのも珍しく、地蔵尊と同じ役割と考えられているのかもしれない。











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