京都大学吉田寮
京都大学吉田寮は京都市左京区吉田近衛町にある学生寄宿舎で、
吉田寮自治会によって運営される自治寮である。
収容定員は147名で、一人部屋と二人部屋で構成されている。
大学の規程での名称は「京都大学学生寄宿舎吉田寮」。
他に学生寮がなかった時代は「学生寄宿舎」「京大寄宿舎」などと呼んでいたが、
昭和27年(1952)に宇治寮が(1965年廃止)、昭和29年(1954)に女子寮が設置されてからは,
他の寮と区別するために「吉田寮」と呼ぶようになった。
吉田寮と食堂
現在の建物は木造二階建ての三棟(南寮・中寮・北寮)が並列し、
平屋の管理棟(本館)につながる構造になっている。
これらの建物は大正二年(1913)に京都帝国大学寄宿舎として建設された際、
第三高等中学校の寄宿舎として建てられた部材が転用され建てられたとされ、
移築されたから百年を経た日本の大学の学生寮としては最古である。
その隣にある食堂は木造平屋建ての構造で、明治22年(1889)に、第三高等中学校寄宿舎の食堂として建設された。
大正2年の吉田寮現棟の竣工にあわせて山本治兵衛により現在の場所に移築された。
築後100年を経過したため、建物は老朽化、耐震性の不足や火災発生時の問題があり、
大学側は建物の取り壊し、その後に新棟を建築する案を提示したが、吉田寮自治会は現棟の補修を求めて対立し、
今後どうするかの結論は出ていない。 最近になり、建物の価値が評価され、建築学の専門家らは現棟を明治・大正時代の歴史的建築資産と評価し、補修を度々訴えていて、京都市文化財保護課は現棟を「京都府の近代和風建築」にリストアップ、また、2015年5月、日本建築学会近畿支部は京大の山際総長宛に「京都大学吉田寮の保存活用に関する要望書」を提出、同年11月には建築史学会が同総長宛に、現棟の保存活用を求める要望書を送付するなど、保存への働きかけが活発になっている。
食堂は木造平屋建ての構造で、昭和六十一年(1986)まで使用されたが、
施設の老朽化や経営上の問題から閉鎖され、その後は吉田寮自治会の寮生大会や
寮内外のサークルのライブや演劇の会場、作業場などに供されている。
現棟と同様、老朽化や耐震性の不足が懸念されていたが、2015年に補修が完了した。
旧西寮と現西寮
現在薬学部になっているところに昭和34年に西寮ができた。
それまで1回生は宇治市黄檗にあった宇治分校で学ぶことになっていたが、
1回生も吉田キャンバスで学ぶことになり、それに伴い宇治寮を閉鎖し、
代わりに紡績工場の女子寮を買い取り、新寮に当てることにし、大学は地名を寮名にすることにしていた。
紡績工場は夜勤もある交代制だったことから、1階は薄暗く、2階は明るい構造になっていたので、
上下2部屋で4人あるいは6人収容するという変則を強いられ、入居する寮生に不満があり、
寮の運営に一末の不安が起きた。 当時の文部省は大学寮の運営をコントロールしたいということから、
寮の自治権を奪うという意図のもと、京大にも学生部に厚生課が設置され、
吉田寮に係長を派遣したいと申しいれた。 自治会は当然のことながら、寮の自治を維持すると回答。
寮生の選考は今まで同様自治会側が行い、係長も選考委員の一人と参加することで合意し、
また、寮内に係長が駐在するのはNOとした。 宇治寮の場合は1年だけの寮だったので、
選考は大学側が行っていた。 新寮の入寮選考をどうするかで、大学と自治会で話合いが持たれ、
新しい寮は吉田寮の一部とし、吉田西寮と命名され、
吉田寮の北、中、南寮と共に共同運営されることになった。
その後、熊野寮ができたことから、西寮は廃止された。
現在の西寮は食堂の手前にあったところに昨年建てられた施設で、
木造3階建ての2棟と鉄筋コンクリート造3階建て(地下1階)1棟からなる施設である。
吉田寮自治会によれば西寮は現棟の代替施設ではなく、薬学部付近にあり、
昭和64年(1989)に老朽化を理由に撤去された旧吉田西寮の代替施設としている。
吉田寮の思い出
吉田寮の前には長く続く銀杏並木がある。 その右側には私が住んでいた頃は二階が広間になっていて、
体育の授業やクラブ活動に使われる集会所と呼ばれる施設があり、木造だがしっかりした部材で造られていた。
その前にはオーケストラが練習する部室の建物があり、
三時を過ぎると下手なラッパやトロンボーンの音が部屋まで届いてきた。
卒業後いつかわからないが、火災で部室が燃え、空地になっていた。
昨年の六月、寮のOB会である舎友会に出席するため来京したとき、立ち寄ると工事中だった。
今年六月、楽友会館で開かれたあじさい忌の途中に立ち寄ると、
右側には部活動に使える新しい建物が建っていた。
並木の左側にあたらしく建てられた建物があり、西寮と命名されていたが、火事で燃えた部室の跡地とその裏に
である。 床屋の看板も見えた。
私の学生生活は吉田寮がなければ大変だっただろう。
当時の寮生は家がまずしいか、母子家庭の子しか入寮できなかった。
小生は中学1年で弁護士だった父が急逝し、奨学資金と母が苦労した金で大学を出たので、
下宿生活もせず、家庭教師やお祭りや大掃除の手伝いで副収入を得ていた。
今のようなコンビニや食堂のバイトなどない時代である。
食堂の飯や売店の素うどんをたべるのは御馳走だった。
田舎に帰ると餅など持って帰り、部屋に用意されていた電熱器で焼き、醤油を付けて食べた。
海苔などは贅沢品で手に入らず、アルバイトで金を手に入れると出町柳に歩いて行き、どぶろくを飲んだ。
大学を出られたのは吉田寮の御蔭で、また、青春時代の楽しい思い出をくれたのも吉田寮。
吉田寮には感謝!!感謝!!である。
同じ思いのOBが発行した書物としては、
◎ 「われ汝を見捨てじ 野田もと 」追悼集
事務室に勤務し寮生を我が子のように接してこられた野田のおばちゃんの追悼集で、亡くなられた時に出版。
◎「銀杏並木よ永遠に 京大近衛寮青春像」
(1997年京大吉田近衛寮文集編集発行委員会発行)
◎「紫匂うー京都大学吉田寮卒寮五十年記念文集」
(現在発行中で、千八百円 申込み先は下記
TEL 03−6661−1561 yosidaryo2015@yahoo.co.jp )
がある。
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